2009年1月15日木曜日

夜は考えない方がいい

仕事が終わってボロアパートに帰り晩酌する

夜に考える事はろくな事ないので、さっさと寝るのが一番いいが
晩酌しながら考えてしまう。

皆さんは仕事を数値にしたら、どの様に表現するのでしょうか。
俺は30代後半の正規職員、部下ありの位置で、小規模作業所の担当者の位置づけで

今の気持は悩み、悲しみ、プレッシャー苦痛苦悩が80%。
喜びが20%で、その20%で80%を超えて気持ちが克服できている、と思う。

その80パーセントはパッション「情熱」の影、「受難」だろう。でも、
理想を求めて、周囲の幸せを願ってないなら、80%は請け負わなくてもいい。
それに、80%の中の過去の悔恨が逆に仕事でリングに上がるモチベーションになっている。

例えば夢多い少年が俺に多くの夢を語って遺伝病である「ハンチントン病」で夭逝した一部始終を知っている俺は願いを一つも叶えれなかった。
「俺は仕事して00ちゃんと結婚して幸せにしたいんだ」「赤いロードスターに乗るんだ」と何度も語って、体力を持て余すように狭い施設の廊下を走り回って転倒していた。俺が退職して協力隊から帰ってきて3年後に施設で再会したら。

彼は意思表示できない、話しかけても何も表情は動かない。微動だにしない状態で車いすに座っていた。元気で活発で、走り回って落ち着きの無かった彼の面影はまるでない。
それから2年たって職場のK先輩に「Yさん、どうでしょうか?」と聞くと
「ああ、亡くなったよう・・。」20代後半で母親、姉と同じ年齢で、
夢を一つも叶えないまま施設から出る事も無いまま天国に行ってしまった。
人並みの幸せも無いままに。

俺は高校を卒業して19歳から地元の知的障害者入所更生施設で働いて「協力隊に行く」だなんて理想で26歳で退職まで勤務した。
最後の勤務日の「お別れの時」60人の利用者が見送ってくれた時、みんなが手を振ってくれてた。
行かないでって俺の車を取り囲んだ。
彼らは退職の自由も無く、その地方の山奥の施設で生涯を終えていく。望んでもいないのに。
「知的障害」のハンデのために。「知的障害」は辞められない。
俺は理想を楯に、本当は職場が嫌いで去って行くエゴイストだった。
本当にごめんなさい。

20%の大切なものを見出すために働いている思ってきた。
でも20%を覚えているのかな?俺?思いだせますか?

貴方のためにすることが私の喜びであり
私の苦しみが誰かの幸せになる
そして、私は私のために努力してきた(はずだ)
それでいいのだろうか。

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自己紹介

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横浜市, 神奈川県, Japan
障害者・地域支援センター作業所型ほっと館「ぷらすわん」で働いている「やまちゃん」です。